見城 美枝子 様

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見城 美枝子(けんじょう みえこ)  
青森大学教授・エッセイスト・ジャーナリスト
稲門女性ネットワーク会長

 
群馬県出身。早稲田大学大学院理工学研究科修士修了。同博士課程単位取得。TBSアナウンサーを経てフリーとなる。海外取材で訪れた国は55カ国以上。現在は青森大学社会学部教授。建築社会学を講義中。著作、対談、講演、テレビ等で活躍。TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」水曜日担当。著書に『会話が上手になりたいあなたへ』(リヨン社)、『会話が苦手なあなたへ』(リヨン社)など多数。
2013.11更新
 
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Q:大学在学中の印象に残っている出来事には、どのようなものがありますか。

 サークル活動を抜きにして、私の学生時代は語れません。高校生の時には、すでにアナウンサーを目指す意志を固めていたこともあり、マスコミに強いといわれていた早稲田大学を選びました。ですから、サークルも必然的に放送研究会(以下、放研)。当時、早稲田の放研は、大学の放送サークルとしては日本一だったのではないでしょうか。放研に入りたい希望者の数が多すぎて、大隈講堂での面接を経て、パスした人だけが入れる、それくらい人気だったわけです。練習はとても厳しく、日々の活動が大変忙しいものだったことから、放研に入ると学業との両立が難しいといわれるほどでしたね。
 当時の放研は、演出、編成、技術、音楽、アナウンス、劇団など、部に分かれていて、放送局ができる形態になっていました。私がいたアナウンス部は放送一般をすべて引き受けていました。稲穂祭で吹奏楽部やオルケスタ・デ・タンゴ・ワセダ(タンゴ演奏サークル)、ハイソ(ハイ・ソサエティ・オーケストラ)などの演奏会の司会をするのが放研の伝統でした。でも、ダンモ(モダンジャズ研究会)には司会もできて面白い奴がいるから、放研の司会者は要らないと言われて。それが、タモリさんでした。色々な場面で司会をさせていただきましたが、やはり早慶戦の試合前に行われるバンド合戦の司会をさせていただいたことは、今でもいい思い出になっています。神宮球場の満席のスタンドに向かい、「みなさーん!」と呼びかけたときの高揚感、そして慶応とのエールの交換は一生忘れることはないでしょうね。
 学業と放研の活動だけでも十分に忙しかったのですが、これからのアナウンサーには海外取材もあるだろうし、ある程度は通訳なしでもインタビューができるようになりたいと思い、時間の合間を縫って英語とフランス語の学校にも通っていました。あと、英文タイプの学校にも通いましたね。とにかく忙しい大学時代でした。

 
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Q:新しい大学像を示した「Waseda Vision 150」では、中心となる戦略として「グローバル人材の育成」を掲げています。60か国を超える諸外国を訪問されている見城さんがお考えになるグローバル人材とはどのようなものでしょうか。

 自分の国に誇りを持って他国の人と接することのできる人です。母国があるという事がいかにありがたことか、わかっていれば、他国との友好を交わすことが出来ます。私は自分が世界に出てみて初めて、日本のことをあまりにも知らない自分に気づきました。そんなこともあり、日本建築について造詣を深めたいと思うようになったんです。それで、社会人になってから、早稲田の大学院に入りなおし、理工学部で学びました。日本の住空間の研究は今でも続けていますが、もっと前から日本の建築でも文学でも何でもいいので、自分らしく語れるように学んでおけばよかったと、後悔しています。つまり、自国の歴史や文化について深く学んだ上で、世界に出ていくことが重要だということです。私も学生時代にはシェイクスピアを暗記してみたりしながらグローバル気分でいましたが、海外で訊かれることは、あなたの国ではどうなのですか、ということで、枕草子や徒然草を語ろうと思っても、受験で暗記した一節しか言えない。源氏物語の光源氏がどれほど魅力的に描かれているか、あるいは、11世紀の初めに文字を使ってシェイクスピアに匹敵する文学を生み出したことの偉大さ、あるいは、その著者である紫式部という女性に対する畏怖の念などを、何気ない会話の中で自国の事を語れる事がグローバルに行動する時必要になります。
 語るとなれば、確かに語学力は必要です。でも、流暢に外国語を話せることよりも、語れるだけの内容を持ち合わせていることのほうが重要です。日本語を英語に置き換えることが100%できるだけではグローバルだとはいえません。外国の人が知りえない日本について、どれだけ語れるか。早稲田大学の学生の皆さんには、社会人になる前に、そうした引き出しの数を増やしつつ、道具としての語学を身につけていただき、世界に羽ばたいていただきたい考えです。

 

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Q:現在は、どのような形で早稲田大学に関わっていただいているのでしょうか。また、お仕事の現場などで、早稲田の精神が生かされていると感じるのはどのようなときですか。

 私は、稲門女性ネットワークの第3代会長を務めさせていただいているほか、私は昭和43年(1968年)の卒業ということで、43年度の年次稲門会の会長もさせていただいております。43という数字の4を「誉」とし、3を太陽燦々の「燦」として、「誉讃会」(よさんかい)として定期的に集まっています。また、関わるという意味では、早稲田の後輩たちに稲門女性ネットワーク会員の会費からの奨学金と言う形で支援させていただいています。私も学生時代は家庭教師のアルバイトをしていましたから、アルバイトそのものを否定することはしません。でも、学生時代こそ学ぶという事に対して自己投資をすべきです。バイトで「稼ぐ」といいますが、学生時代がバイト一色というのは、大きな学ぶ時間の「損失」といっても過言ではありません。将来の自分ために少し投資をして、大きく実をとる、これをしていただきたい。現役の学生が、「少し投資できれば何か大きく成し遂げられる」という時に、その「少し」の部分を、多くのOB・OGで支えていけるといいですよね。そうした流れの中で、素晴らしい研究論文が生まれたりしたら、それほど嬉しいことはありません。
 早稲田の精神は「在野精神」と言われますが、「在野精神」という言葉には、社会への批判を忘れず、社会へむやみに迎合せず、という凛とした生き方が説かれています。集まり散じる、つまり一人一人頑張る、でも先輩同輩後輩、時には力になる。したがって、今、社会に出ている現役の私たち一人一人が、先輩方と同様に後輩にも尽力していかなくてはなりません。早稲田の先輩たちが脈々と築き上げてきてくださったものが、私の大きな後ろ盾になっていることは確かなことですので、そういう意味では、常に早稲田の精神が生きているといえます。「早稲田卒です」と言えば、「君も早稲田か!」と、それだけでそこに一定の絆が生まれるのですから、これは本当に有難いことです。私は、国の役職もいくつか兼任させていただいていますが、これは決して私がすごいのではありません。「早稲田の出身なら間違いない」とお墨付きをいただけるほどのものを築いてきてくださった先輩方がすごいのです。ですから私はいつも、「早稲田大学、ありがとう」という気持ちで仕事をさせていただいています。

 

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Q:早稲田大学の現役の学生たちに対して、何かメッセージはありますか。

 現役の学生の皆さんには、稲門会というものをどういう立場で引き継いでいくのかを意識していただきたいですね。私自身、稲門の素晴らしいつながりを実感したことは一度や二度ではありません。ご存知の方も多いかと思いますが、2007年に大隈講堂が国の重要文化財に指定されました。私は1991年に早稲田大学大学院理工学部研究科に入りなおし、建築学を学んだのですが、その際に、大隈講堂の素晴らしさに改めて気づかされたんです。それで、大隈講堂を国の重要文化財にすることを提案すべく、改修の話が持ち上がったタイミングでシンポジウムを開くことになりました。それで、早稲田出身の大橋巨泉さん、永六輔さん、田原総一朗さんなどの著名な皆さんにお電話を差し上げ、シンポジウムの趣旨をお伝えし、参加をお願いしたところ、皆さん「おう!」と、二つ返事で快諾してくださいました。また、メディアにも取り上げていただきたいと思い、シンポジウムの前日に新聞社の社会部に直接電話をしたところ、新聞社で活躍する早稲田の先輩や後輩が我がことのように動いてくださり、シンポジウム当時は取材ヘリまで飛ばしてくださったんです。取材記事は新聞の一面に掲載されました。つまり、大隈講堂が重要文化財に指定された背景には、そんな稲門同志の力添えがあったということです。
 最近は昔と違って、東京または比較的東京に近い場所からの入学生が増えていると聞きます。時代が変われば、稲門会の在り方も変わっていく必要があるでしょう。場合によっては再編していくことを考えなくてはならないかもしれません。現役の時はなかなか感じづらいと思いますが、社会に出てみると、自分がプライドを持って帰属できる場所があることを有難いと感じるようになると思います。社会において、人間関係は財産です。稲門のつながりも然り。そんなかけがえのない場所、つまり稲門会を、いかに存続させていくべきかを、是非とも若い世代の皆さんにも考えていただけると嬉しいですね。