岡田 卓也 様

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岡田 卓也(おかだ たくや)  
イオン株式会社 名誉会長相談役
(公財)イオン環境財団 理事長
(公財)岡田文化財団 理事長
早稲田大学維持員

 
1925年、三重県生まれ。1948年、早稲田大学商学部卒業。同大学に在学中の1946年、家業の(株)岡田屋の代表取締役に就任。1970年、ジャスコ(株)代表取締役社長、1998年、同社代表取締役会長。2000年、現在の名誉会長相談役に就くまで、55年の永きにわたりグループ代表としての重責を担う。一方、20代で企業経営を始めた直後より、社会貢献活動に取り組み、1990年にはイオン環境財団を設立。同財団の理事長としても精力的な活動を続けている。
2002年、早稲田大学名誉博士。2008年、上智大学名誉博士。2009年、三重大学名誉博士および韓国高麗大学校名誉博士。
2007年には早稲田大学への継続的かつ多大な貢献が顕彰され、名誉称号「維持員」が贈呈された。また、創立125周年事業募金における多額の支援が讃えられ、創立125周年事業の一つとして建設された11号館には、「岡田卓也記念アトリウム」が設置されている。
著書に「大黒柱に車をつけよ」(東洋経済新報社)、「小売業の繁栄は平和の象徴」(日本経済新聞社)「岡田卓也の十章」(商業界)など。
2012.06更新
 
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Q:岡田様の早稲田大学在学当時は、どのような学生生活だったのでしょうか。

日本が第二次世界大戦の真っ只中にあるとき、私は高等学院の学生で、学院の最終の頃に勤労動員として徴用されました。いろいろな意味で厳しい戦時中ではありましたが、学生同士が寮で寝食を共にし、文学、哲学、倫理学、経済原論などを共に学んだことは、思い出深い青春として私の心に刻まれています。また、専門的な学問に入る前に、あらゆる社会の現象や問題に対し、互いに意見を述べ合い、ひいては人生について語り合ったことは、その後の人生において数々の困難に直面した際に、大変役に立ちました。
私は、早稲田大学に入る直前に、召集令状を受けて軍隊に入隊しましたが、学友のなかには、自ら志願して戦地へ赴く者もいました。終戦を迎えた1945年、私は20歳でした。内地勤務だったこともあり、同年の9月には復学。そして、「敗戦した国を復興するのは我々若者である」、そんな自負心を抱きつつ、私は郷里である三重県四日市市に戻り、家業の岡田屋の復興に着手したのです。したがって、私の大学生活は、半分は学生、半分は中小企業の小売店の社長としての日々でした。

 
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Q:岡田様が考える早稲田らしい人材とは、どのような人材でしょうか。

やはり、「在野精神」のある人材こそが早稲田らしい人材だと思います。現状のなかに安住するのではなく、新しいものに挑戦していけるかどうか。これは、どの業界においても必要とされる精神だとは思いますが、特に政界やマスコミ界に早稲田大学の卒業生が多いのは、この在野精神があるゆえのことではないでしょうか。
私自身は、生涯をかけて、小売業の地位向上に尽力してまいりました。日本には、士農工商の意識が根強く残っており、私の人生は、小売業の地位向上のための闘いの連続だったと言っても過言ではありません。そして、それは言うまでもなく、早稲田の在野精神と結びついています。
同じく早稲田大学を卒業している父が、小売業の近代化を目指し、いち早く大正15年にして岡田屋を株式会社化したのも、おそらく在野精神にもとづいた考えによるものだと、私は考えています。
そして、もう一つは、やはりグローバル化する世界に対応できる人材であること。私が考えるグローバル人材とは、日本人の良さを持ち、日本人としての自覚があり、そして、現地の人から信頼される人材のことです。私は今まで様々な企業と合併したりしてきましたが、特に経営者や国のトップに必要なことは公私の別です。これをはっきりできない人はトップに向かないので、人材養成においても重要だと考えます。

 

Q:岡田様は世界に先駆けて環境問題に取り組まれていますが、どういった思いから始められたのでしょうか。

私の出身地である三重県四日市市では、1960年から1972年にかけて四日市ぜんそくが問題となっていました。石油化学コンビナートによる大気汚染がもたらした公害病です。その当時、私は岡田屋の社長であると同時に、四日市市商工会議所の副会頭も兼任していたことから、四日市ぜんそくの問題に対しても関わりを持っていました。そんな経緯もあり、環境問題には早い時期から関心があったのです。
そして、ジャスコ20周年の節目となる1989年、社会貢献活動をより本格化すべく、「イオン1%クラブ」をつくりました。これはイオンの主要各社が税引前利益の1%を拠出し、環境保全活動や社会貢献活動に取り組むというものです。時を同じくして、ドイツの東西の壁が崩壊。私は、20世紀の課題であった東西問題の終わりを感じました。そして、21世紀は南北問題が世界の課題になると思ったのです。そのキーワードこそが「環境(問題)」であるとの考えから、1990年、環境問題を解決することを目的とした「イオン環境財団」を設立しました。
なお、環境問題が国際的に取り上げられるようになったのは、その2年後、1992年にブラジルのリオデジャネイロで「国連環境開発会議(地球サミット)」が開催されてからのことです。私は同サミットにNGO代表として参加させていただきました。

 
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Q:社会貢献活動に対する岡田様のお考えをお聞かせください。

社会貢献活動の形は多様だと思いますが、私どものような小売業における特長は、お店にいらっしゃるお客さまへ直接働きかけることができる点です。たとえば、東日本大震災後は、各店舗で募金活動を行いました。わずか3ヶ月の間に、お客さまからの募金や従業員からのカンパ、イオン1%クラブなどからの拠出を合わせ総額で50億円を超える支援金を被災地に届けることができました。

しかし私は、社会貢献活動は大企業にしかできないと申し上げているのではありません。
各企業の規模に応じた社会貢献の形があって然るべきです。私が岡田屋の社長に就任してから数年後、まだ小さな企業でしたが、奨学資金を出す活動を始めました。当時は月1000円出せば高校へ通える時代でしたので、1人あたり月1000円の奨学金を、5人に出すところからの出発でした。その数を、自分たちの企業規模の拡大に合わせて、徐々に増やしていきました。他にも、四日市市にある道路の両端に、花壇を20ヶ所ほどつくり、花を植えたこともあります。引き抜かれても、引き抜かれても、私は何度も花を植え直しました。つまり、社会貢献活動は、「やろう!」という志さえあれば、どんな規模の企業にもできることだと思います。

 

Q:岡田様は母校の早稲田大学へ多大なご寄付をなさっていますが、早稲田大学を支援することに対して、どのような思いをお持ちでしょうか。また、これからの早稲田大学や卒業生に対する期待をお聞かせください。

母校への支援は私個人として行ってきました。企業としては、早稲田大学だけでなく様々な大学へ社会貢献活動の一環として支援しています。私立大学には、それぞれに伝統があり、それぞれに良さがあります。そうしたオリジナリティを打ち出していこうとするならば、国からの助成がなくても経営が成り立つのが理想の姿だと思うのです。アメリカの大学のように、卒業生や企業による寄付を元にした基金によって経営されるべきだと考えています。
かつての日本における大学は官主導型でした。そうしたなかで、早稲田大学は、いち早く私立大学として創設されたのです。したがって、これからの早稲田大学には、その創設当時の精神を受け継いでいくと同時に、時代の変化に対応できる人材を養成していただきたいと思います。また、大学と企業が、これまで以上に連携していくことにも大きな期待をしています。
本年8月に、イオン環境財団主催の学生交流環境フォーラムが開催されるのですが、これには、早稲田大学(日本)、清華大学(中国)、高麗大学校(韓国)の三大学と共催し、各大学から選抜された学生さんたちが参加されます。同フォーラムの主な目的は、持続可能な社会をつくるための「行動するキーパーソン」を養成することにあります。これは一例ではありますが、大学と企業が連携していく先には、双方にとって非常に有意義なものがあると確信しております。
早稲田大学の卒業生には、是非とも、社会貢献活動や環境保全活動を、「普通のこと」として捉えられる人材になっていただき、必要な行動ができる一人ひとりになっていただきたいと願っております。